2007年06月07日

大台ケ原

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大台ケ原

2007年6月7日撮影


鹿
蜘蛛の巣
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大台ケ原

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大台ケ原

2007年6月7日撮影


門番
枯木と花
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大台ケ原

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大台ケ原

2007年6月7日撮影


正木ヶ原 画像3
正木ヶ原 画像4
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大台ケ原

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大台ケ原

2007年6月7日撮影


正木ヶ原 画像1
正木ヶ原 画像2
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大台ケ原

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大台ケ原



2007年6月7日撮影

日出ヶ岳


頂上付近の景色と根っこのオブジェ
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2007年06月02日

国生み神話にヤマタの痕跡があった


M

2007/6/2

国生み神話にヤマタの痕跡があった


ヤマトの語源を考察する上で最も重要な史料、それが国生み神話である。
国生み神話の語りの中に、国生みによって生まれた島のうちの大きな島が八つであることに因んで「大八島国」と命名されたことが明記されている。
国生みによって生まれた島が八つではないにもかかわらず、あえて八つの島を選び出したのは、先人も指摘するように、八という数字を聖数とする習いによるものであろう。
この「大八島国」の命名法こそ、ヤマトの命名法の基本的な考え方であるといえる。
即ち、それは領有権の主張であり、支配権の主張である。
大八島の領域を明らかにし、それが神によって作られたということを語ることによって、その帰属するところが暗示されているのである。
そうした考えと同じ考え方で「ヤマト」という呼称が命名されている可能性が極めて高い。
ヤマトはその領有範囲を表現する語句である可能性が高く、ヤマトのヤは聖数である八を表す可能性が高い。
強引ではあるが、このような考えを推し進めていくことによって、ヤマトの語源と確信できる記述を見つけることができるのである。

『古事記』「国生み」は重要な史料であるから、その訳文の全文を転載する。

この中から、先に述べた考えに基づいてヤマトの語源の根拠となる記述を見出すことができるのである。
筆者が重要視する記述部分には、『古事記』「国生み」の訳文にはない○印を付けている。
また、考察に関係のない部分の漢字表記の一部をカタカナ表記に変えている。

そこで二柱の神は相談され、「今私たちが生んだ子は、不具児でよろしくない。やはり天つ神のおられる所に参上して、このことを申しあげよう」とおっしゃって、すぐに一緒に高天原に参上し、天つ神の指示を仰がれた。
そして天つ神のご命令で鹿の肩の骨を焼いて裂け目の形で神意を知るという占いをした結果、
天つ神は「汝が先に唱えたのがよくないのだ。再びオノゴロジマに帰り降って、改めて唱え直しなさい」と仰せられた。
そこで両神は帰り降って、また例の天の御柱を前回の用に巡られた。
こんどはイザナギのミコトのほうから先に、「なんとまあ、美しい娘だろう」と唱え、そのあとで妹のイザナミのミコトが「何とまあ、すばらしい男性でしょう」と唱えた。
このように唱え終わって結婚され、
その間に生まれた最初の子は ○淡道之穂之狭別島(アワジノホノサワケジマ)であった。
次に伊予之二名島(イヨノフタナノシマ)(四国)を生んだ。この島は身体は一つだが顔は四つあった。
またそれぞれの顔に名がついていた。そういうわけで、その顔の一つの伊予の国を姉姫の愛比売といい、讃岐の国を食べ物の霊の依りつくという意味の飯依比古といい、阿波国を穀物をつかさどるという意で大宜都比売(オオゲツヒメ)といい、土佐国を強健な霊の依りつくという意の ○建依別(タケヨリワケ)という。
次には、三つ子のように三島から成るという隠伎之三子島を生んだ。またの名を押し凝り固まったという意で ○天之忍許呂別(アメノオシコロワケ)という。
次に筑柴島(九州)を生んだ。この島もまた身体は一つだが顔は四つあった。
これもそれぞれの顔に名がついていた。
つまり、その顔の一つの筑柴国を輝く日にちなんで ○白日別(シラヒワケ)といい、
豊国をやはり日にちなんで ○豊日別(トヨヒワケ)といい、
肥国も日にちなんで ○建日向日豊久士比泥別(タケヒムカヒトヨクジヒネワケ)といい、
熊曾国もやはり日にちなんで ○建日別(タケヒワケ)という。
次には壱岐の島を生んだ。またの名を離れ小島という意で天比登都柱(アメヒトツバシラ)という。
次に対馬を生んだ。またの名を天之狭手依比売(アメノサデヨリヒメ)という。
次に佐渡の島を生んだ。
そして五穀の豊かに実るという意の大倭豊秋津島(オオヤマトトヨアキヅシマ)(本州)を生んだ。またの名を ○天御虚空豊秋津根別(アマツミソラトヨアキズネワケ)とほめたたえる。
こうした次第で、以上の八つの島を生んだのにちなんで日本列島を大八島国という。

以上の記載中に 筆者が○をつけた数は「八つ」である。
その「八つ」の中に、一つの「根別」と七つの「別」が含まれているのは偶然ではないと考える方が自然であろう。
根別と表現されるのは最大の島である本州であり、そこから当時において重要視されていたであろう地方や島が、「根別」とは切り離せない「別」の関係にあることを表明するための命名である可能性が高い。
「根別」と「別」との関係は「俣」の関係でもある。
一つの「根別」と七つの「別」から成り立っていると認識されていた国は「八俣の国」と命名される可能性が高い。
この場合、ヤマタの王の名乗りは日本全土の領有者であることの名乗りとなり、日本全土を支配する者にのみ許された名乗りとなるのである。
邪馬台国女王はヤマタノクニの女王ではなかったか?
ヤマタなら邪馬台と表記されえる。
ヤマタが時を経てヤマトに変化することもありえよう。

邪馬台国の語源 了
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2007年06月01日

須佐之男命の大蛇退治


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2007/6/1

須佐之男命の大蛇退治


ヤマトの語源を考察するうえで参考となる神話を今一つとりあげてみよう。
それは「須佐之男命の大蛇退治」の神話である。
『古事記』「八俣の大蛇」・「草薙剣」の概略は次のようなものである。
スサノオノミコトは罪の償いとして高天原から追放され、出雲の国の肥河の上流・鳥上というところにやって来る。
そこで国つ神の娘を毎年食べにくるという頭が八つ尾が八つの「ヤマタのオロチ」という大蛇に出合う。
スサノオのミコトはオロチに酒をたらふく飲ませる計略をつかいヤマタのオロチを退治する。
そのヤマタのオロチの尾のところから大刀が出てきたので、これをアマテラスオオミカミに献上する。
この大刀が草薙の剣である。

この神話に関し『古事記』頭注では
大蛇の形状は、農耕の水を支配する水神(龍蛇神)の神話的表象、龍神を守護神とする砂鉄採鉱が行われた肥河流域の投影など種々な解釈があるが、確定はできない。
と注している。
また『日本書紀』頭注では
この説話、八を聖数とする説話で、随所に「八」が使用される。これは実数が「八」であることを示すものではない。
と注している。


また、ヤマタのオロチについて『古事記』頭注では
神代紀に「頭尾各八岐有り」とある。ヲロチのヲは尾、ロは接尾語、チは威霊の意。水稲の生育をつかさどる水霊が蛇体であるという信仰から、農民が祭る水神(河水、風雨、雷電などの霊格をも含めて)とみる説や、鳥上地方が砂鉄の産地であるという風土を背景にして、鉄山の守護神もしくは鉄山族の首長とみる説などがある。
と解説している。

『日本書紀』頭注では
「頭尾各八岐有り」とあるので八岐大蛇という。ヲロチのヲは峰(ヲ)、ロは助詞、チはミヅチ・イカヅチなどのチ。蛇は水の精霊で農業の豊凶を左右する。巫女がその水の精霊に奉仕して農業の豊穣を求める儀礼が、やがて変化して、悪い者のために娘が奪われるという話に転じて行ったものであろうという。
と述べている。

この日本神話は、ヤマトの民を楽しませるために作られた話でもなく、ヤマトの統治者が自己満足するために作られた話でもない。
民に話聞かせて統治者の由緒正しさやその功績などを理解させ納得させるための話である。
そういう観点からこの神話を読んでみると、ヤマタのオロチとはヤマトに仇なす害敵、というような意味合いでの命名ではないかという推論が生じてくるのである。
勿論、推論にしか過ぎないが、ヤマトの語源とヤマタという語句とが、音以外の関連があることを伺わせる例が他にもあるのである。
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2007年05月31日

八阿多鏡


K

2007/5/31

八阿多鏡

ヤアタという語句は、「天の岩屋戸こもり」という神話にも記載されている。
『古事記』「天の岩屋戸こもり」によると、その概略は、アマテラスオオミカミが天の岩屋戸を閉ざしてこもられたので、高天の原も葦原中ツ国も暗くなり、夜ばかりが続き悪い出来事が至るところで起こった。そこで神々が集まって多くの思慮を兼ね備えたオモイカネノカミという神に考えさせて、つぎのように実行する。
まず、常世の国の長鳴鳥を集めて鳴かせ、次に鍛冶のアマツマラとイシコリドメの二人に鏡を作らせ、タマノヤノミコトに勾玉の玉飾りを作らせ、アメノコヤネとフトタマノミコトに鹿の骨を焼いて占わせる。
その後、アメノウズメが変な踊りを見せたので神々が大笑いをしたので、アマテラスオオミカミが顔をのぞかせ、そのわけをたずねる。
アメノウヅメノミコトが「あなたよりも立派な神がいるので喜び笑って、歌舞をしているのです」と答える。
その間に、アメノコヤネノミコトとフトタマノミコトが鏡を差し出しアマテラスオオミカミに見せ、アマテラスオオミカミがいよいよ不思議に思って少しずつ身をのりだしてきたところを
アメノタジカラオノカミが手をとって外に連れ出したので、高天の原も葦原中ツ国も自然と明るくなった。

というような筋書きである。
この神話に出てくる鏡は『古事記』では八尺鏡でありその部分の表記は
八尺鏡(訓八尺云八阿多)となっている。
また、『古事記』頭注では、
神代紀に「八咫鏡」とある。アタ(咫)は周制の八寸(約十二センチ)であるが、「八」は聖数でもあり、単に大きな鏡をいうか。
と注釈されている。

『日本書紀』でのその部分の表記は、
八咫鏡、 一云真經津鏡(あるにいはくまふつのかがみ)
とあり、また、頭注では、八咫鏡は「巨大な鏡」と解説されている。

また、この神話のモチーフについて
『古事記』頭注では、
この神話の基本的モチーフは、冬至のころ、衰えた天子の魂を復活させるための鎮魂の呪儀であると解される。
と注釈されている。

また、『日本書紀』補注では、
洞窟や箱にかくれた日神に、さまざまの物を見せておびき出すモチーフが、西はアッサムから東はカリフォルニアまで環太平洋的に分布していることは、メンヘン・ヘルフェンの指摘した通りであるが、洞窟にかくれた日神を、鶏を鳴かせたり、花を見せておびき出す点において、中国南部からアッサムにかけての例が類似していることを岡正雄は論じている。
と解説している。

ヤアタの鏡のヤアタの解釈にも諸説があり、多くは大きさを表すものとする説と美しさを表すものとする説に分かれる。

ところで、日本神話における「天の岩屋戸こもり」は、その筋書きのルーツが何処にあるかは別として、
暦を含めた天文を司る正統な子孫の象徴としてヤアタの鏡が登場するのであり、そのヤアタの鏡を所有するものこそ、神代の昔から連綿と続く天文を司る正統な子孫であることの証となることを語ろうとするのが創作動機であり、素直に読めばそれ以外の解釈はあり得ないのである。
ヤアタの鏡を三種の神器のうちの一つとして決めていることにも、その原作者の意図するところが窺えるのである。
そのような鏡の呼称は、その大きさや美しさなどで表現される筈がないのである。
大きさの場合にはより大きなものが、美しさの場合にはより美しいものが、時の経過と共に出現することは明白である。
それでは、絶対的地位を主張することはできないのである。
正統な子孫であることの証となるものを語ろうとし、それが絶対的なものであることを主張しようとする神話の中でありえないことである。
ところが、既に記載したように、

『古事記』序文の中に、「――ココに旧辞の誤りタガえるを惜しみ、先紀のアヤマりマジれるを正さんとして――」とあることから、同一対象について二以上の記述、解釈が存在したことがうかがえるのであり、誤った解釈で編纂されてきた可能性もありえるのである。


ヤアタの鏡は日本という国、ヤマトという国を治めるべき者、天文をも司る正統な子孫である統治者が持つ鏡である。
それを主張しようという意志で命名されたという仮定で、ヤアタに近い語句を探すとすれば、「ヤマト」という語に辿りつくのである。
一歩すすめると「ヤアタの鏡はヤマトの鏡であり、ヤマトを統治するものの所有する鏡という意味での命名である」との解釈も成り立ち、それなりに説得力がある話が出来上がるのである。
勿論、仮定に基づくものであり、ヤアタがヤマトの語源とかかわりがある確証としてあげようとするものではないが、一つの傍証として取り上げることができると考えるものである。
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2007年05月30日

東征物語


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2007/5/30

東征物語

『古事記』中巻は、神武天皇(神倭伊波礼毘古命)の東征物語で始まる。
その物語のなかに、ヤマトの語源に関係すると思われる語句がでてくる。
物語の概略を『古事記』「東征」に従って述べてみよう。
神倭伊波礼毘古命が五瀬命と、どこに都を置けば平安に天下を治めることができるかについて相談する。
そして平安に天下を治めるために東のほうに都の地を求めて日向の地を発つ。
豊国の宇沙(大分県宇佐市)、筑紫の岡田宮(遠賀川河口付近)、安芸国の多祁理宮(未詳)を経て、吉備の高島宮(未詳)に着き、そこで八年間滞在する。
その地から海路を知る国つ神の案内により、浪速渡(大阪湾)を経て白肩津(東大阪市日下町付近にあった港)に到達する。
この時、登美能那賀須泥毘古が軍勢を集めて戦った。その戦で兄の五瀬命が手に矢傷を負う。
五瀬命は、「私は日の神の御子であるから、日に向かって戦うのはよくない」と悟り、紀の国
の方に迂回する。
その途中、五瀬命が矢傷を負った手の血を洗ったところを血沼海という。また、男之水門という所で矢傷がもとで亡くなられるが、その時におたけびしたのにちなんで男之水門というのである。
――中略――
高木神は「天つ神の御子を、これから奥のほうにはいっていかせてはならない。荒れすさぶ神がたくさんいるので天より八咫烏を遣わそう。その八咫烏が道案内をするから、そのあとについてゆけばよい」と教える。その教えどおりに八咫烏のあとについてゆき、吉野川の下流に到着する。
――中略――
その後、宇陀から忍阪(奈良県桜井市忍阪)に到着した時、土雲という土着民がまちかまえていた。伊波礼毘古命は、土雲たちを招き、宴をひらき、その宴のさなかに斬りかかり、それらの土雲を討つ。さらに兄師木、弟師木(土豪の兄弟)を討ち、ついに畝傍の白檮原宮で天下を治めることとなった。

『古事記』による神倭伊波礼毘古命の東征の物語のあらましは以上のようなものであるが、『日本書紀』の語るところも、そのあらすじはよく似ている。

この神倭伊波礼毘古命の東征物語で注目したいのは、「五瀬命が矢傷を負った手の血を洗ったところを血沼海という。また、男之水門という所で矢傷がもとで亡くなられるが、その時におたけびしたのにちなんで男之水門というのである。」という説明、また、最初にヤマトの白檮原宮(かしはらのみや)で天下を治めるようになったミコトの名を、「ヤマトの謂れとなったミコト」という意味の命名をしているという説明などである。
つまり、東征物語は、天皇家の祖先が九州からヤマトの地に遷ってきたという物語のなかで、さまざまな謂れを述べているという点である。
今更いうまでもないことであるかもしれないが、東征という物語と共にさまざまな故事来歴を述べているのである。
それは、さまざまな故事来歴を述べることによって、一つ一つを納得させ、そして物語の述べている全体をも納得させようとするための手法であるといえる。
だからこそ、そのところどころに地名の謂れについても述べているのである。
そういうことから類推すると、ヤマトの謂れとなったミコトをヤマトに導くという重責を担った「八咫烏」というカラスの名が、ヤマトと無関係な命名であると考える方がむしろ不自然である。

ところで、「八咫烏」は、ヤタガラスと読み習わされているが、『古事記』頭注によると

ヤアタガラスの約で、大きな烏の意。アタ(咫)は周制の八寸(約十二センチ)。神武前紀には「頭八咫烏」とある。

と記されている。

ここで注目したいのは、ヤマトの謂れとなったミコトをヤマトに導くという重責を担った「八咫烏」というカラスの名が、ヤマトガラスという命名ではなく「ヤアタガラス」と命名されているということである。
一つの仮定として、ヤマトの原初の名は「ヤアタ」若しくはそれに近い音であった可能性がある、と推定することもできるのである。
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2007年05月29日

ヤマトの語源と『記・紀』




2007/5/29

ヤマトの語源と『記・紀』

ヤマトを考察するうえでの史料は、『古事記』と『日本書紀』である。
『古事記』については、小学館・日本古典文学全集の中の『古事記・上代歌謡』に依拠し、以下の文中で『古事記』頭注という場合には、同書の本文の上につけられた注釈をさすものである。
また『日本書紀』については、岩波書店・日本古典文学大系の中の『日本書紀・上』に依拠し『日本書紀』補注、『日本書紀』頭注という場合には同書の補注、頭注を指すものである。

ところで、ヤマトの語源を考察するうえでの史料として、『古事記』や『日本書紀』をもちだしてきたことに対して失望する人もいるだろう。
今まで邪馬台国やヤマトの語源解釈の諸説に対して、根拠がないとか傍証がないとか批判してきた。
その当人が『古事記』や『日本書紀』の中から、根拠となるべきものや傍証となるべきことがらなどを引き出そうとするからには、『古事記』や『日本書紀』が信ずるに足ることがらを記述しているという保証がなければならない。
このことに関して『まぼろしの邪馬台国』の著者、宮崎康平氏は、同書の中で、「テーマがなくては小説は書けない。記紀の神代神話に虚飾はあっても、その実態は、なんらかの形で現存しなければ、これらの神話をデッチあげることはできないのだ」といっている。
この宮崎氏の言をもって『記・紀』の記述が正しいものとするものではないが、『記・紀』の中にも信ずべきことがらが記述されていることは疑えない事実であり、何を、どこまで信ずるか、に問題があるのである。

ところで、その『記・紀』の成立について、その概略を、小学館・『古事記』の解説に沿って述べておこう。

『古事記』の成立は、天武天皇が壬申の乱という苦い体験から、嫡出優先の皇位継承の重大性を深慮し、皇位継承の次第を伝える従来の帝紀を改めて検討する必要を感じたことに、その端を発するという。壬申の乱を平定した天武天皇が、諸家の伝えもっている帝紀と旧辞が既に正実と違い、多くの虚偽を加えているのを憂い、これを取捨選択して、正伝を確立して後世に伝えようとして、稗田阿礼に勅語し、帝紀と旧辞を誦習させた。
この事業は、天武天皇の崩御で中断したが、持統、文武両帝を経て即位した元明天皇が、再び先紀・旧辞の誤り乱れているのを正そうと志し、太安万侶に詔勅を下して、阿礼の誦んだ「勅語の旧辞」を撰録させた。
安万侶は、その表記法を工夫して、和銅五年(712年)正月『古事記』三巻を献上した。
 また、『日本書紀』は、天武天皇が、川島皇子以下十二人を大極殿に召して、帝紀及び上古の諸事を記定させたものであるとされている。
それゆえ、『日本書紀』が国家的修史事業と解されるのに対し、『古事記』は国家的な修史事業とは解しがたいものとされている。そのため、『日本書紀』は官撰の国史して尊重され、成立後から平安朝まで官廷においてその講義が行われ、また、書写も行われて、多くの古写本が作られ、朝野に広く知られるようになった。


このような成立の背景をもつ『記・紀』であるが、すべてが真実の描写と見ることも、また、すべてがフィクションとみることもできない。
『古事記』序文の中に、「――ココに旧辞の誤りタガえるを惜しみ、先紀のアヤマりマジれるを正さんとして――」とあることから、同一対象について二以上の記述、解釈が存在したことがうかがえる。
『日本書紀』では、同一対象について二以上の記述がある場合、「一書に曰わく」として、その異説をも記している。
もちろん、だからといって『記・紀』の内容を都合のよいように解釈してもよいというのではない。
ただ、『記・紀』の字句を絶対的なものとして考え、その字句に幻惑されて真実を見逃してはならないといいたいのである。
もちろん『記・紀』の字句を離れての解釈が許されるのは、確固たる裏づけの存在する場合に限られるのはいうまでもない。

さて、前置きはこれくらいにして、ヤマトの語源についての考察を始めよう。
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